富、名声、力。
一度この世に生れ落ちたならば、全てを手に入れんと望むことこそ国家の花道。
老い果て、病み衰えた時代が死に際に放った一言は人々を混沌へと駆り立てた。
『時代の覇者になりたいか? なりたいのならくれてやる。競い、奪い、獲得し、支配し、その果てにこの世界を手に入れるがいい!』
国家達は更なる発展、更なる栄華を目指し、夢を追いつづける。
世はまさに大帝国主義時代!人間の歴史は争いの歴史。
弱き者が強き者に喰われても、それは弱い奴が悪いのだ。
弱き国が強き国に奪われても、それは強くない国の方が悪いのだ。
それが唯一のルールであった時代が確かに存在していました。
酷い?
確かに。
でも、それが当時の常識。現代の物差しで計ることに意味などはないのです。
西暦1878年、初夏。ドイツ帝国首相にして19世紀の欧州が生んだ完璧超人
『オットー・フォン・ビスマルク』が主催したベルリン会議において衝撃が奔りました。
露土戦争に勝利したロシアは締結したサン・ステファン条約によって欧州東部から南へと影響力を広げます。
これに対して、ロシアの影響力拡大を恐れたイギリスとオーストリアによる反発……を隠れ蓑に完璧超人ビスマルクが蠢動を始めるのでした。
ビスマルク「サン・ステファン条約の体制を認めちまったらヨォ、ロシアはエーゲ海までを影響力下におくじゃん? そしたらヨォ、いつか欧州の政治的・軍事的バランスを崩しちまうよなァ?! それって、マジでヤベーよなァ?!(ビキビキッ)」中立的立場の裁定者、忠実なる仲買人を自称するビスマルクは会議において終始イギリス支持に立ち、ロシアの立場を崩すべく活動をしました。
結果、露土戦争におけるロシアの利益は否定され、サン・ステファノ条約は大幅に修正されました。
ロシア全権のゴルチャコフ公爵は有能な外交官でしたが、この後引退に追い込まれています。
さて、1856年のクリミア戦争においてもそうでしたが、ロシアはこれまで幾度となく不凍港を求めてバルカン半島を目指して南下してきました。
しかし、
ロシア「ってゆーか、バルカン半島手に入れんのってヤバクね? ムリっぽくね? てゆーか、マジムリじゃね?」サン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結。
ここに至り、ついにロシアはバルカン半島での南下政策を断念しました。
これより後、ロシアは進出の矛先を極東地域に向けることになります。
極東地域。
そう、そこには近代化への道をひた走り、坂の上に見える雲の先を目指す、若き国があったのです。
HANA子の歴史はこんなに面白い 第二回 ~児玉源太郎:その0~
スポンサーサイト